第一章


  懐かしい夢だ、彼がまだ幼かった頃の記憶――
  広葉樹の生茂ったその森は日の光をあまり通さない。彼はその森があまり好きではなかった。薄暗い森にすむ陰鬱な人々は彼らを苛み嫌っている。追い立てられ、殺されかけたこともあった。それでも彼は森に通うのを止められなかった。
  まるで幽閉だ。木々の間をかけながら思う。森には彼らを害する人々の住む大きな屋敷と彼の目的である小さな離れが存在した。屋敷と離れは大きな川と木々で遮られている。いや、離れが谷や山、川で囲まれている、と言ったほうが正しいのかもしれない。屋敷の人々には会いたくないので彼にとっては好都合ではあったが、離れの住人のことを考えると手放しでそれを喜ぶことはできなかった。
  一番近い村から山を越え、森に入って数時間。間もなく目的地に着く。息を整え、ゆっくりと横に伸びた枝を分け入る。
  ――居た――
  木漏れ日の中に漆黒の髪が翻り愛おしそうにミセバヤの花を見ていた視線が彼へと向けられる。陶磁器のような白い肌、闇夜すら飲み込むような艶やかな髪、女物の紅に染まる着物に包まれた身体はまだ小さく手足は折れてしまうのではないかと思うほど細い。
  しかし、彼は知っていた。子供がその幼い体に秘められた力を発揮すれば、どんな相手であろうともそうそう敵わないことを。それ故に怖れられ屋敷から隔絶された離れに閉じ込められていることを。子供がその力を使うのを何より嫌っていることを。そして
「また来たの■―?」
  愛しい者を呼ぶような声と屈託のないその笑顔に自分が大層魅かれている事を――

**1**
  この世界には『鬼』と呼ばれるモノが存在する。鬼には小さないたずらを愉しむものから鋭い爪や牙をもち、人の命を喰らうものまで様々いるが、その生態はほとんど知られていない。何処から来るのか、何故人を襲うのか。わかっているのは普通の人間には鬼に触れることすら出来ず、ただその脅威から逃げ惑うことしかできないという一点だけである。
  では人々はその存在に怯え、隠れ、逃げることしか出来ないのかと言えば決してそういうわけではない。その鬼を倒す特殊な力を持ち、鬼を退治することで生計を立てている者達がいる。人は彼らを「陰斬」と呼んだ。
  そして中でも最も強い陰斬を『たった一人で百の鬼を倒す』という意味を込めて
「百鬼(なぎり)、と呼んだのよね」
  翡翠は聞き厭きた、というように冷ややかなまなざしで隣を歩く青年を見上げる。台詞を取られた青年は不自然に口を開けたままコクリと小さく頷いた。
  彼らが歩く通りには両サイドに様々な店が立ち並び、肉や魚、野菜に一体何に使うのかわからないガラクタのようにも思える品々を前に威勢の良い声が飛び交っている。沈みかけた太陽がその存在を主張するかのように空は燃え、店じまいを前にさあさあお買い得だよと値引きに客引き、周囲は熱気に包まれていた。街をゆく親子ははぐれないようしっかりと手をつなぎ、今日の夕飯のおかずでも買いに来たのであろう恰幅の良い女性が人波をかき分けて進んでいく。
  危うく女性と正面からぶつかりそうになった青年は慌てて横に飛んだ。その様子にため息を一つ落とすと翡翠は続ける。
「ねぇ螢(けい)、その話はもう耳にタコが出来るくらい何度も何度も聞きました。そんなことよりも私は本当に百鬼がこの街にいるのかどうかが知りたいんだけど」
  螢は幾度か少女と同じの深緑色の瞳を瞬かせると、へにょりと眉を垂れた。
「うーん、多分」
「なっ、多分って何よ、多分って。信用のおける情報屋に聞いたんじゃなかったの。私言ったよね、あのおじさん胡散臭そうねって。なのに螢ったら高いお金払っちゃうんだもの。おかげでここまでずっと歩き通しだったでしょ。もー野宿は嫌。今日こそふかふかのベッドのある宿屋に泊まりたいっ!」
  一気にまくしたてはしたが、その宿代さえ手元にあるか正直不安なところである。翡翠が残金の確認をしようと肩から掛けていた鞄をあけて財布に手を伸ばしたその時、一陣の風が吹いた。それが人の合間を縫うように駆け抜けた男が起こした風だと気付いたころには彼女の手元から軽い財布はなくなっていた。

  スリだ、と認識すると同時に螢は走り出したが小柄な男の背中はどんどん人波に呑まれていく。後ろから微かに聞こえる翡翠の声が遠い。まだ僅かな時間しか経っていないというのに、既に男の背中は判別が難しくなり、前方から時折聞こえる短い悲鳴や非難の声だけが頼りである。まずい、このままでは見失う。螢は苛立たしげに唇を噛んだ。
「あの男に財布でも取られたのか」
  突如振ってきた声に驚き足は止めずにあたりを見回す。いつの間に現れたのだろうか、右手側に螢より頭一つ分程小さい子供が並走していた。螢は同年代の青年達に比べると身体能力が高く、昔から走ることを一等得意としていた。生まれ育った村では三つ四つ年上の相手にだって負けたことはなかった。いくら人混みで走りにくいとはいえ、それは相手とてほぼ同じ条件のはず。しかも相手は自分よりも二つ三つは歳下に見える子供だというのに平然とついて来ている。白いローブを首もとで軽く止め、フードを目深にかぶっているために顔はほとんど見えないが、息を切らしているような様子もみられない。
「そうだけど、君は……」
「そうか、先に行くぞ」
  言うが早いか小柄な体はあっという間に人並みに紛れて消えてしまった。井の中の蛙、というが何もこんなタイミングで大海を知らなくてもいいじゃないかと悲しくなったが、今は凹んでいる場合ではない。気合を入れなおし速度をあげようとしてはたと気付く。男の姿はおろか、先まで聞こえていた悲鳴や非難の声さえなくなっている。
「先に行くって何処に行ったら良いのさ」
  大通りから逸れて細い路地へと消える白いローブのはためきを頼りに薄暗い小路へと入る。光のあまり差さない路地で、彼らの姿はまともに見えず、時折ひらめく白いローブと微かな物音だけが頼りである。小さな窪みに溜まった水が跳ね、ぶつかりかけた木箱の上で昼寝をしていた野良ネコの抗議も聞かず駆け抜ける。二、三度曲がったところでようやく開けた場所に出た。
  やっと追いついた。ぜーはーと荒い息をつきながら膝に手を当て深呼吸を繰り返す。状況を確認しようと顔を上げて螢は眉を顰めて首を傾げた。小柄な男が壁際に追い込まれ、逃げ場を求めてきょろきょろと目を彷徨わせている。まるでヤクザでも前にしたかのような怯え具合だが、どう見ても彼の前に立つのは先程の白いローブをかぶった子供ただ一人である。
「またやったんだってな、半年前の約束はもう覚えていないのか」
「や、その、手が勝手に動いたって言うか、習性、みたいな?  嘘です嘘でしたごめんなさい!」
  両手を顔の前で違う違うと振りながら男は別の言葉を探す。
「ええと、だからさ、ちょっとした出来心ってやつで。な、ほら、これだろ、財布。ちゃんとこいつは返すから、許してくれよつぐみちゃん」
「問答無用」
  名前を呼ばれた瞬間に、ローブが風を受けてはためき、白い脚が勢い良く跳ね上がると軽やかに男のこめかみへと吸い込まれていった。走っている間に首もとの紐が緩んでいたのだろう。その勢いではらりとローブが落ちる。艶やかな長い黒髪が翻った。癖っ毛なのか所々跳ねているが、風を受けて膨らんだその宵闇に思わず目を奪われた。
「悪いな、こいつスリの常習犯なんだ。もう止めるって前に言ってたはずなんだが。っと、これだろ」
  緩やかな弧を描き、螢の手に財布が納まる。振り向いた顔は中性的で、整っているが歳不相応の大人びた感じを受ける。少しつり上がり気味の菫色の瞳と右頬の『千』に似た刺青が何よりも印象的だ。
「あ、ありがとう。えっと、つぐみちゃん?」
  ローブを拾おうとした手が止まる。ゆっくりと顔を上げるとアメジスト色した瞳が螢を捉えた。
「その『つぐみちゃん』っていうのはやめてくれ。それから、財布の中身は確認しておいた方がいい。さっき、財布は返すって言ってただろ。財布は返ってきても中の金はなくなってました、なんてことざらにあるんだ。あと時計とか装飾品とか、金目のものはちゃんとしまっていたほうがいい。中心部や大通りはともかく、一歩裏路地に足を踏み入れれば浮浪者やこいつみたいな人間も多いからな」
  ぴくぴくと痙攣を繰り返している男を指差すともう用は済んだ、というようにローブを拾いとんとん、と軽く助走をつけると、跳んだ。二メートルはあるだろう壁の上に軽々と着地するとつぐみは壁の向こうへと消えてしまった。

「で、明日は彼女を捜そうと思うんだ」
「はい?」
  宣言通り、ふかふかのベッドに腰かけて枕を抱きしめながら不可解そうな顔で翡翠が訊く。財布をとり返してきたときには随分と機嫌のよかったはずなのだが今は随分とご機嫌斜めである。
「確かに、今日の晩御飯が食べられたのも、温かいお風呂に入って、ふかふかのベッドで眠れるのも彼女のおかげよね。そういう意味ではそのつぐみちゃんに感謝してもしきれないけど」
  でも、と彼女は続ける。
「私たちが捜しているのは百鬼でしょ、そのこが百鬼の居場所を知ってるの?  それとも彼女自身が百鬼だとでもいうの?」
「そういう訳じゃないけどさ、この街のことに詳しそうだったし、俺たち二人で百鬼を捜すより彼女に手伝ってもらったほうが効率的だと思うんだ」
「じゃあ聞くけど螢、彼女はどうやって捜すの?」
  この街の何処にいるのか分からない少女を捜してから百鬼を捜すならば始めから百鬼を捜すのと手間は変わらない。それならば、今ここであえてつぐみを捜す必要はないじゃないかと言いたいのだろう。
「ふっふっふ、そこはぬかりないから大丈夫。さっき宿の女将さんに訊いてみたんだ。」
「女将さんに?」
「そう、つぐみっていう黒髪と紫色の瞳が印象的な子を知っていますかって訊いてみたらさ、つぐみがきてるのかい?  って。それって知っているってことだろ。だから詳しくきいてみたんだ。女将さんが言うには彼女はいつもどこかを旅しているらしいんだけど、この町に戻ってきている時には懇意にしている鍛冶屋さんの所にいるはずだって。旅して回っているからかいろんなことに精通しているらしいし、最近の街の出来事なら中心部に住んでいるらしいその鍛冶屋の人に訊いてみてもいいしさ。あ、もちろん鍛冶屋の大体の位置もちゃんと聞いてあるから、そこまでの手間はかからないと思うよ」
  翡翠は目をまん丸く開きぽかんと螢を見返していた。ね、と改めて同意を求めるとむすりと頬を膨らませてしまった。
「ふーん。そう、わかった。もう疲れたから寝るね」
  一瞬傷ついたような顔に見えたのは気のせいだろうか。ぼすりと背を向けてベッドに沈む翡翠の後ろ姿に掛ける言葉が見つからなくて螢は小さく息を吐いた。こういうとき、翡翠は頑として返事をしなくなる。しかたなくおやすみと声をかけると窓辺においた明かりをそっと消す。暗くなった部屋を窓から漏れる光がほんのりと照らしだした。この街は夜になっても音にあふれている。この中に百鬼がいるのだろうか。あれから九年。ずっと探し続けたのだ。
  窓の外を暗い目で見つめる青年を、潜り込んだ布団の中から少女がじっと見つめていた。

2