氷の棺

  人の入らない山奥にはポッカリと大きな口が開いている。口の中は薄暗く、奥からはひんやりとした空気が流れ出ていた。青年はその薄暗い口の中に足を踏み入れる。彼が此処に入るのは初めてではない。むしろ何度目かわからないほど足を踏み入れていた。
  入り口こそ広いものの奥に入るにつれ狭くなり、陽の光が当たらぬせいで暗闇は更に濃くなっていく。一度足を止めて暗闇に目を慣らす。まだ足元は見えているが更に奥に行くためには明かりは欠かせない。手元に用意したランタンに明かりを灯し、一度目を閉じる。微かな水のせせらぎが聞こえる。ゆっくりと目を開けると橙に照らされた床や壁の表面が波打つように揺らめいた。体重をかけながら一歩一歩ゆっくりと足を進める。気を付けなければ足元が滑り簡単に転んでしまう。二つに別かれた道を左に進み、一メートルにも満たない高さの穴を潜り抜けると水の音が少し大きくなる。そこから暫く歩くとまた分かれ道が現れる。真ん中の道を選び、緩やかな下り坂を慎重に進み、右に曲がると奥の方に仄かな明かりが見えた。
  あと少し。青年は足を止めること無く危なげなく歩を進める。突き当りを左に曲がると突然目の前が開けた。眩しさに一度目を細める。轟々と水が流れる音が響く。冷えた空気が肌を突き刺す。吐く息が真白く染まった。天井に空いた穴から漏れた光が、地下に溜まった湖の上に輪を投じている。
  湖は広く、透き通った水の中に時折魚の影が翻る姿が見えるほど透明度が高い。目を凝らせば湖の真ん中に四角い塊が見えた。その塊こそが青年の目的だ。付近を見渡し誰も居ないことを確認すると彼は隠しておいた小舟を湖に浮かべ乗り込んだ。櫂を漕ぐと船は静かに進み始める。塊に近づくと漕ぐのを止め、それを傷つけることがないように方向を調節する。ゆっくりと塊の隣に船をつけるとまた周りの温度が下がった気がする。
  気泡一つ入らない大きな氷の塊。少女はその中で眠っている。まだ十にも満たないほどの幼い少女。緋色の着物は金銀の糸がふんだんに使われた蝶の刺繍が施され、誰が見ても高価なものだと判る。少女を中心に広がる長い髪は烏の濡羽色。ふっくらとした唇は柔らかな桃色をしており、氷の中にいることなど忘れてしまいそうになる。
「――――」
  青年の口から小さな呟きが漏れる。当然のことながら青年の呟きにも少女の目が開かれることはない。瞼の裏に眠るアメジスト色の瞳を思い浮かべて青年は唇を噛んだ。

  分かってくれ、と誰かが言った。この冬の寒さは異常だと。神がお怒りになられている、誰かが犠牲にならなければならないのだと。そして、巫女にはお前の妹が選ばれたのだと。
  理解など出来るはずがない。そんなもの、したくもなければするつもりもない。何が名誉なことなのだ。いるかどうかもわからない神の怒りを鎮めるために生贄になることが名誉だというならば、お前たちがなればいい。何故、まだ幼い妹が犠牲にならなければならないのだ。父も母も早くに死んだ。村の大人たちは自分の身や我が子を守るために父母のいない自分たちを選んだのだ。そう思えば思うほど村人への憎悪が湧いた。
  妹の手を無理やり引いていく男たちに抵抗して暗い小屋に閉じ込められた。何とか抜けだして妹の元へ向かった。緋色の着物をきた彼女は青年の顔を見て泣きそうな顔で笑った。こんなに綺麗な着物を着たのは初めてだと。
  ――ね、綺麗でしょ。神様の前に行くから綺麗な格好をするんだって
      ――とっても美味しいご飯も頂いたんだよ。お兄ちゃんにも食べさせてあげたかったなぁ
  目の前が真っ暗になった。逃げようと手を引いた。でも、涙を流しながら彼女は言った。もし、私が神様のところに行くことで皆が助かるなら、それでいい。お兄ちゃんが助かるなら、それでいい。
  連れだそうとして、失敗した。取り押さえられ、連れて行かれる少女の悲痛な顔を見送ることしか出来なかった。
  ――お兄ちゃん!  止めて!  私はちゃんとやるから、神様に皆のこと助けてくださいってお願いするから!  お兄ちゃんを離して!
  後から知った。青年は小屋に閉じ込められるだけでは済まなかったはずなのだと。少女が贄となることを受け入れ、彼を助けてくれるように頼んだのだと。少女が贄となってから今までの異常な寒さが和らいだ。村の人々は手を取り合って喜んだが、彼らが喜べば喜ぶほど青年の心のうちはどす黒く濁っていった。彼らが許せない、殺してやろうと何度思ったか。しかし、その度に少女が止めるのだ。氷の中から開かないはずの目を開けて小さな唇を開いて「駄目だよ」と。

  氷の中の少女の頬に手を当てる。今は触れることのできない肌の感触と温もりが蘇る。守ることの出来なかった命がこの中に閉じ込められている。頭上の穴を見る。あそこからこの子は落とされたのだ。真冬の夜。真っ暗な穴へと落とされるのはどれほど怖かっただろうか。水の中はどれほど冷たかっただろうか。
  氷の棺は五年間変わらず少女の時を止めて閉じ込め続けている。きっとこれからも時を止め続けるのだろう。だが、もしこの棺が無くなったら、その時は――